DJ刃頭とBEATKICKSの結成
1987年に当時16歳のTWIGYはDJの刃頭(ハズ)とヒップホップユニット「BEATKICKS(ビートキックス)」を結成して名古屋を中心に活動するようになります。
TWIGYは「当時の名古屋でヒップホップの音をつくるヤツは刃頭ひとりで、ラップをするヤツは俺ひとりしかいなかった」と語っています。
その後、TWIGYは18歳の頃、スティーヴィー・ワンダーの日本ツアーに参加し、楽曲「Each Other's Throat」に合わせて、日本語ラップで共演しました。
これは当時のラッパーとしては、ズバ抜けてすごい経験です。
TWIGYは地元名古屋でラップを独学で学び、オリジナルなラップスタイルを確立していきました。
その後、「東京のヒップホップは名古屋よりも進んでいる」と思っていたTWIGYは腕試しのために、東京のステージでラップをすることになります。
そこで声をかけられたのが、当時さんピンCAMPを主催し、日本のヒップホップ界をまとめていたECDでした。
これがきっかけで東京に通うようになり、ラッパーのMURO(ムロ)と出会い、2人は仲良くなりました。
MICROPHONE PAGERの結成
その後、TWIGYは1992年に活動の拠点を名古屋から東京に移し、MURO、P.H.FRON、MASAO、DJ GOと伝説のヒップホップグループ「MICROPHONE PAGER(マイクロフォン・ペイジャー)」を結成します。
当時のMICROPHONE PAGERは、DABO(ダボ)やRINO LATINA II(リノ・ラティーナ・ザ・セカンド)などの後に有名になるラッパーたちに大きな影響を与えました。
MICROPHONE PAGERはRHYMESTER(ライムスター)やキングギドラなどと同じ世代のヒップホップグループではあるが、実際にはもう少し前から活動をしていました。
MICROPHONE PAGERは「死者に手を合わせては 生き抜こう地球丸いうちは」という衝撃的なラインが入っている名曲「病む街」などを世に残しました。